●人のせいにし続けると、心はずっと乱れたまま
例えばの話、人間関係で揉めた時、あなたはそれを誰のせいにしているのだろう。きっと迷うことなく相手のせいにしているはず。当然のことだ。自分のせいなら、そもそも揉めたりはしていない。理不尽なことを言い出した相手が悪いに決まっている……そう思うのが普通なのだろう。
ただ、そう思っているうちはおそらく心は激しく乱れたまま。怒りやモヤモヤ、不快感が断続的に現れたりして、しばらくは気持ちの休まる暇がない。気がつけば人付き合いそのものに疲れを覚え、うっかり"嫌いな人"が増えていたりして……。いずれせよ"人のせい"にすると、どんどん心がよどみ、歪んでいくのだ。
でも、ちょっと待って! なんでアイツのせいで自分がこんなに嫌な人間にならなきゃいけないの⁈ そういうふうに気づけた人は大丈夫。そう、相手のせいにすると損をする。実はいいことなど何もないのだ。じゃあ一体どうするの?
そこで思い切って、自分のせいにしてみてはどうだろう。ありえない、というかもしれない。でも、実際にやってみるとこれが不思議なくらいに気持ちいい。一度試せば、意味がわかる。もちろんおざなりではダメ。ひょっとして悪いのは自分だったのではないか?と本気で考え、理由を探す。わずかでも"自分のせい"と思えた時、心が洗われたように清々しい気持ちになるはずなのだ。それどころか、ある種の幸福感が訪れるのは本当に不思議なほど。
●多くの幸福論が「自分原因説」は正しいと訴えていた
じつは、時代を超えて読まれている幸福論を紐解くと、まさにこの"自分原因論"にたびたび出くわす。つまり「人生における問題の全ては、自分に原因がある」と、そう思うことが、心が整い、結果として幸せになる秘訣であると。
正直、20代でこの提案に出会った時は意味が全然わからなかった。言わんとしていることは理解できても、そんなの絶対無理と、心が受け付けなかったのだ。でも年齢を重ねるにつれ、実際そうしてみたら心が晴れやかになるのを感じ、その意味が体でわかるようになっていった。
それは何もその方が道徳的だとか、人の道として正しいと言っているのではない。そう思う方が、自分自身が楽になりポジティブになれるという教えなのだ。人のせいにする自分のレベルから抜け出せる喜びなのだろう。
だから「私のせいでした」と相手に伝える必要は全くない。そう思うだけで、きっと関係は改善されていくはずだから。
●いつもいつも"人のせい"にする人に、成長はない
もちろん時と場合による。仕事で誰かがミスをして、連帯責任を負わされるような場面で、それを自分のせいにするのはさすがに難しいけれど、幸福論は同時にこんなことも訴える。どんな出来事にも必ず意味があると。そこに、自分が成長できる学びがあると。
だから、自分は100%無関係であったとしても、そこに立ち会った意味を考える。ひょっとしたら自分がその人の立場になっていたかもしれないと考える。すると、その誰かを責める気持ちがなくなり心が整う。何かにつけ、そういう発想をもってみるべきなのだ。
それが癖になった時、知らない間に人として驚くほど成長しているはずだから。逆を言うなら、いつもいつも人のせいにしている人に、成長はない。それだけは揺るがない事実なのだ。
だからともかく、そんなのあり得ないと思っても、一度試してみて欲しい。自分のせいにすること。なぜそれが幸福への道なのか、必ずわかるはずだから。
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