お使い物につまらないものなんてない?
「つまらないものですが」
昔からある”手土産に添える言葉“……1つの常套句として当たり前のように使われてきた。いかに心を込めて選んだものでも、あなたにとってはつまらないものかもしれないという、思いっきりへりくだった表現だが、今時はそこに違和感を感じる人も多く、さすがにあまり使われなくなっている。
他にも、お使い物にまつわる古いマナーはたくさんあって、和室に通されたら下座に手土産を置き、座布団を外して脇に正座。挨拶を済ませてから手提げ袋や風呂敷から品物を出し、一度自分のほうに正面を向けてリボンや包装紙を整えてから畳の上に置き、茶道のように時計回りに90度ずつ2度回して相手に正面が来るように置き直し、両手で相手の前に差し出す……なんて、儀式のようなマナーが存在するくらい。
だからこそ思うのは、手土産が相手を威圧するようなケースがあってはならないということ。
そのお使い物は、自分のため?
まだ新入社員の頃、職場にとても高額で由緒ある手土産を持って現れた人がいて、こんな高価ものを申し訳ないくらい!としきりに恐縮していたら、先輩たちが口々にこう言ったのだ。あの人は自分のためにお土産を持ってくる人なのよと。
頂き物をしているのに、そんなふうに言い放つのはどうなのだろうと思いつつ、確かにお使い物には承認欲求のようなものが現れやすいという怖さを感じた。実際ギフトにはその人の人となりが現れる。
状況に見合わない、また受け取り手が引いてしまうような一級品は相手のためと言うよりも、むしろ「私はこんなすんごいものをあげられる人なのですよ」と主張しているようにも見えてしまう。お使い物の内容で、相手より優位に立ってしまうというケースがなくはないと言うことなのだ。
しかもその“すんごいもの”を、「つまらないものですが」と差し出したら、なおさら慇懃無礼。そういう意味で、お使い物は案外難しいのである。
いずれにせよ、世の中の見方として、お使い物が自分のために見えてしまう人がいるのは事実なのだ。じゃあそう見えないお使い物ってどんなものなのだろうか。
最も心に残ったお使い物とは?
かつて、最も心に残ったお使い物って、どんなものだっただろうと思い返してみた。もちろんとても暑い日に、当時はまだ珍しかった有名なチョコレートブランドのアイスクリームが届いたり、行列に何十分も並ばないと買えないようなドーナツが届いたり、そうした時も職場がワッと湧いたのを覚えている。でも何より1番記憶に残っているのは、出版社の編集部に広告代理店の若い営業の男性がお土産ですと言って差し入れてくれたもの……実はそれ、コロッケだった。
決してオシャレなコロッケではなく、町場で売っているような普通のコロッケがたっぷり包まれた紙包み……夕方の4時ぐらいに熱々のまま持ち込まれたのだ。
女子は揚げ物もポテトも大好きで、ちょうど小腹が空いた時に、しかもちょうど疲れがピークに達している時間、そのチョイスはとてつもなくセンスよく思えた。彼はなかなかやるじゃない? みんな少なからず感激していた。
それこそ、シチュエーションを全て心得た上での手土産は、そうそう、今私たちまさにそれが食べたかったのと言いたくなるほど、まだ湯気が出ているような揚げたてで、見る前からわかるコロッケのいい匂い。みんな幸せそうな顔していたもの。
ある意味、場所も時間も含めて見事なタイミングで五感の全てで喜べるような手土産こそが、ずっとずっと記憶に残るほどありがたいものなのだと、その時思い知った。決して、立派な一級品では無いのである。
もう一つ、逆にこれまでで1番喜ばれたかもしれないギフトを思い返してみた。上海の旅のお土産に買った象牙のハンコ。賑やかなショッピング街に、ハンコに文字をその場で彫ってくれる驚くべき職人のいる店があった。何の下書きもなしに、あっという間に美しい吉相体の文字が彫られていく。感動しつつ、思わず友達の名を注文していた。それが異様に喜ばれたのである。
思いつきだったけれど、わざわざ感と特別感、そしてもちろんパーソナル、結果として実用的で思い出になる……今時ハンコなど使わないけれど、良いギフトになったと思っている。
自分のためではなく、相手のため………ギフトにおけるこの当たり前のことを贈る前にもう一度、心に唱えてみて欲しいのである。
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