確かに無理して“いい人”の
ふりをしても無駄。でも・・・
昨今、新書やウェブ記事などでこんな提言をよく見つける。「いい人なんて、やめちゃえば? 嫌われたっていいじゃない。」
私はこの手の記事を見るたびに、いつも強い違和感を覚える。それって本当だろうかと。もちろん意図は分かる。無理をして“いい人”のふりをしなくていい。無理をして人に好かれようとしなくていい。確かにそれは、ある意味の正論なのかもしれない。“いい人”のふりは疲れるし、“ふり”は“ふり”。なり切れるものではないし、ごまかしてもきっとバレる。つまり、無理して“いい人”を演じても無駄になるということ……これはもちろん正しい。
でももし無理してではなく、純粋に“いい人”になりたいと思っている人がこれを読んだら、どう思うのだろう。あたかも「嫌われたくない」と思うことが、姑息で恥ずかしいことのように写ってしまう。露骨な八方美人が鼻につくような場合は別にして、“いい人”になろうとすることが、無駄だしカッコ悪いことなんだと思ってしまったらとても残念。世の中は”いい人“を1人失ってしまうわけだから。
と言うより、人間は本来なかなかそうはなれないけれど、やっぱり“いい人”になろうと努力する、そういう生き物なのではないか。言い換えれば、“いい人”か否かのギリギリ境目で、できるだけ自分の中の“いい人”の割合を増やそうと、ある種の緊張感を持って生きている人はきっと少なくないはずなのだ。なのに、そんなの辞めちゃえば?と言われたら、きっと脱力するに違いない。
“いい人”になりたい人は、
本当に嫌われるのを恐れているのか?
大体、嫌われたっていいじゃない?という言い方にも齟齬を感じる。“いい人”になりたい人は、嫌われたくないからそうするのか、そこにも疑問を感じる。もっと大きな意味で“いい人”として生きたいだけなのではないだろうか?
ちょっと不器用で、人間関係でいつもつまずいてしまうことを悔いていると言った人がいて、その人がある時ふとこう呟いた。自分にはこれと言って取り柄もないし、せめてこれからの人生ちょっとでも“いい人”になって、自分が死んだ時“いい人”だったねと言われるような人生にしていきたいと。
そこには、“人に嫌われたくない”と言うような変な計算はない。ただただ、徳を積みたいと考えただけなのだろう。
それまで時に傲慢になってしまうことがあったのを反省していて、私はその素直な気持ちにちょっと感動した。事実、あの人どんな人?と聞かれたら答えはまず“いい人”かそうでないか、しかないのだから。
そして“いい人”として生きるって、それこそ限りなく素晴らしいこと。“いい人”と関わるだけで何か心が浄化されるような喜びがあるし、“いい人同士”の会話を聞いているだけで幸せな気持ちになる。“いい人”は毎日毎日どこかで人を心地良くさせている、それだけは間違いないのだ。
”いい人“2割、”そうでない人“2割
だから”いい人“の連鎖を広げたい
逆に考えてしまう。“いい人”を辞めてしまう人が増えた時、世の中は一体どうなるのだろう。社会には2:6:2という人間のタイプの分布の法則というものがある。社会の仕組みの多くのことに当てはまるが、おそらくこの場合も同じ。“いい人”2割、普通の人が6割、“非いい人”2割と考えていいはず。
そういう法則に則っても、その6割の多くは“いい人”になりたいと思っている人に違いなく、そういう人が匙を投げてしまった時、世の中は明らかに混乱し、心をすり減らす人も増えてくるはず。それじゃなくても今、心身ともに疲弊している人が多い世の中。だから1人でも“いい人”が増えることが何より重要な時代なのだと思う。
そこで知っておきたいのは、心のキレイは連鎖するということ。いやもっと言えば、汚れた心も連鎖する。だから意識して心の美しい人と関わるべきなのだと思う。自ずと心が洗われ、浄められていく、それが人間だからこそ、そうした良きスパイラルを広げていければ、もっとみんな心穏やかに清々しい日々を送れるのに。
だから“いい人”になりたい人は、“いい人”との関わりをもっと増やしていくと良い。それが、100%幸せへの近道になるのだから。
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